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小林節子の兄との関係がすごい...!生涯を寄り添った優しい兄妹の交流とは [芸能]

爆報!THEフライデーに、
最近たびたび登場されている、
元フジテレビアナウンサーの
小林節子さん。

そんな彼女と、生涯ともに育った
最愛のお兄さんとは、
一体どのような人だったのでしょうか?


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小林節子さんのお兄さんのお名前は、
「重夫さん」
とおっしゃいます。

小林節子さんが
1945年3月17日のお生まれで、
お兄さんの小林重夫さんが
1941年のお生まれですから、
4歳差ぐらいの兄妹ということに
なりますね。

ともに、神奈川県の横浜市で
元気に育ったおふたり。
小林節子さんは地元の
横浜共立学園高校に通われているようですが、
お兄さんもおそらく、
同じ高校だったのでしょうか。

また、大学進学については、
妹の小林節子さんは
慶應義塾大学 英米文学科
に進んだ一方、
お兄さんの重夫さんは、
早稲田大学を選ばれたそう。

のちに、お兄さんのことを、
"「人生劇場」大好きな早稲田マン"と、
節子さんが述懐されています。
本当に、人情味のある
優しい人柄の方だったそう。


節子さんは生涯独身のまま、
キャリアウーマンとしての人生を
歩んでこられましたが、
お兄さんは生まれ育った神奈川横浜の地で、
奥様と結婚し、息子さん、娘さんとともに、
円満な家庭生活を送られたそうです。

それでも、ときには
長野の諏訪に済む小林節子さんのもとを
夫婦で訪れては、ペンションの修理補修や
ペンキ塗りなどの作業を手伝ってくれたりと、
生涯兄妹の仲は良かったそうです。


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そんな兄の重夫さんと妹の節子さんは、
両親の介護という、大きな問題を
ともに抱えることになります。

当初は、兄の重夫さんが
ご両親を横浜のお住まいに引き取りましたが、
やはり結婚生活のなかで二人の介護を
続けることが難しかったのでしょうか。
2年ほどで、今度は節子さんの元に
両親がやってくることになります。

長野の山深い原村の住まいにおいて、
なかなか馴染むことのできない
お母様と、節子さんが衝突を
繰り返した時期もあったそう。

それでも、母の骨折が起きたとき、
お父様の亡くなられる直前など、
たびたび横浜から兄の重夫さんは駆けつけては、
兄妹ともに両親の介助を行ったとか。

2008年の2月、
お父様の亡くなられた日、
ベッドの上で静かに息を引き取られたお父様を、
兄妹のふたりが見たお姿は、
とても穏やかで幸せそうなお顔だったそうです。
その翌日の葬儀では、綺麗な雪景色がどこまでも広がり、
重夫さんやお嬢さんの久美子ちゃんは、
「おじいちゃんは、
僕達にこんな美しい原村を見せたかったんだね~」
と言い合って、景色を眺めていたんだとか。


そして、2014年2月には、
ついに兄の重夫さんにも、
肝臓にガンが見つかってしまいます。
このとき、状態は末期ガンといえるもので、
余命は2ヶ月ほどしかないと
宣告されてしまいました。

節子さんにとっては、
余命いくばくもない母と、兄の両方の死が
近づいて来るということで、
大変お苦しい時期だったと思います。


結局、先に息をひきとられたのは、
お母様の方でした。

しかし、重夫さんの息子さんは
そのことを知らせず、
臨終の間際、最期の最期になって、
節子さんから重夫さんに伝えられたそう。

そのとき、親よりも亡くなる不孝を免れたと
安堵したせいでしょうか。
お兄さんは、にっこりと微笑んで、
亡くなられたそうです。


美しい兄妹の物語、
もっとくわしく知りたいなと思ってしまいますね。
いずれにせよ、こんな素敵な方達を
お育てになった小林節子さんののご両親は、
素晴らしい方たちだったのではないかと思います。

小林節子さんも、大変過酷な介護を通して、
無事に両親を見送られました。
今度は自分のために、人生の残りの時間を
楽しく過ごしていただきたいですね。


ここまで読んでいただき、
ありがとうございました!


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